哲学対話をしましょう

今回は須永先生の哲学講座の1回目でした!

 

私がおもろいなと感じたのは、知識というのは実は脱げない鎧をかぶっているというところです。

 

知識は一度身についてしまったら、それを他の知識に書き換えるというのはなかなかできなくなるんです。

 

二つの写真を見せていただいたとか驚きました。

 

最初なにが描いてあるか全くわからなかったのですが、そこには、牛の絵とダルメシアンの絵が隠らていると教えてもらいました。

 

その瞬間もう何が描いてあるかわからなかった自分というのはそこにはいなくて、もうそれにしか見えず何が描いてあるか分からなかった自分に戻ることが出来なかったのです。

 

ここでただ闇雲に知識をつければ良いというものではないんだと感じました。

 

良い知識も一度しっかり定着させると離れにくいが、悪い知識も一度定着すると良い知識にアップデートしにくい。

 

つまり、何か知識をつける際にもこれは本当に正しい知識なのかを見極める力というのが大切だということです。

 

 

ではもう一度今回の問について考えてみます。

 

まず、

 

『なぜわれわれはあなたは差別していると言われたくないのか?』

 

についてです。

 

そう言われるのが嫌なのはやはり周りの目を気にしているからではないでしょうか。

 

人間はやはりなんだかんだ言っても自分というものを一番守りたい生物だと私は認識しています。

 

なので、一般的に差別=悪という固定概念があり、その固定概念を塗り替えるというのは、一度定着した知識を変えるのは難しいのと同様に難しいのだと思います。

 

つまり、人間は一般的に悪だと言われれば日本人の風潮として右に倣え精神なので、悪は民意に従って潰してもいいくらいの考えなのだと思います。

 

どれだけ強い人間も袋叩きになってしまう場合身に危険を感じます。

 

なので、自分を守る、自己防衛の感情としてもあなたは差別をしていると言われたくないのだとおもいます。

 

 

そして次の問です

 

『差別をしたくない場合、どうすればいいか?あるいはそもそも、差別はしてしまっても仕方ないものなのか(だとしたら、なぜ世の中ではかくも差別はいけないと言われてしまっているのか)』

 

私の意見としては、差別をしないのは無理です。

 

人間だれもが軽蔑の感情があります。

 

差別をしていないように見える人も、差別感情を内にしまっているだけです。

 

なので、私は差別をしてしまうのは仕方ないので、その差別感情を内に隠し、さらに隠していることすら相手に気づかせない技術を高めていく必要があると思います。

 

まず、前提として差別感情はあるものだと認識をして、その上で差別をしたくないと考えるのではなく、差別してしまうのをどう相手に隠して、それをさらに気づかせないかを考えるというのが私の中での答えです。

 

 

今回の講義もなかなか難易度が私自身の中では高かったですが、その分頭もフル回転させているので、成長も大きい。

 

哲学を考えるのは大変ですが、大変ということは文字の通り大きく変わる、つまり、大きく成長するということなので、必死に喰らいついていこうとおもいます🔥