古典の物語の続きの話を考えよう!
こんにちは
することが多すぎて本当に全て投げ出して沖縄でゴルフでもしたい気分です。
さて、今回は古典の最後の講義です。
正直言うと今回もあまり話は理解できませんでした😭
古典は苦手だから受け付けないと固定概念を持っているのか、本当に苦手なのかよくわかりませんがとりあえず一回で理解するのは難しいです笑
今回はグループに分かれて話し合って源氏物語の続きを考えるというものだったので、その際に吉岡さんと同じグループになったのが幸運でした🤞
ざっくり、話の内容を吉岡さんに説明してもらい、まぁこれが理解しやすかったです😁
では、チームで出た続きの物語をまず書きます
薫は浮舟への思いも尽きなくて、浮舟も現世への未練が尽きなかったところに、浮舟の住んでいたところでボヤ騒ぎがおこる。なんとか逃げ出したが、力つきて倒れているところに薫がボヤ騒ぎを聞きつけて訪れる。互いに想いを伝えるが、浮舟は亡くなってしまい、薫は光源氏のように色々な女性を渡り歩くようになってしまう。
というものです。
私はとりあえず誰かが死ぬと物語は面白くなると思ったので「誰か殺そう」と発言しました。
それを上手く使って物語ができました。
驚いたのが、ボヤ騒ぎです。
これが吉岡さんが考えたものなのですが、実際に古典においてボヤ騒ぎは使われていたと古典の横山先生がおっしゃっていて、とても驚きでした。
私は誰かが死ぬことしか思いつかず、その後の話を考える事ができなかったため、
新しい話がどんどん思いついているのが凄いと感心しました。
ですが、私も切り口のアイデアを出すのは得意なので、そのアイデアを思いついたらすぐ口に出すということができた点は良かったと感じました。
最後になりますが、なぜ古典が必要なのかを考えます。
私は人生の選択肢を大きくするためにも古典を学ぶことは必要だと感じました。
人間は日々当たり前のように生活しています。
しかし、今ある当たり前は古典の世界では当たり前でないということが多々あります。
古典を学ぶことによって、当たり前という固定概念に捉われることなく、物事を見ることができ、選択肢が必然的に広がってくるのではないでしょうか?
もしかしたら、これは古典に限らず、長年の疑問であった学校での勉強の必要性にも繋がっているのかもしれないと感じました。
将来別に社会は使わない。
数学は使わない。
理科は使わない。
そのような人も多くいます。現に私もそのうちの一人でした。
しかし、勉強をすることにより、確実に人生の選択肢、人生の見え方が変わっていると思います。
高校までは何気なく受けた古典でしたが、今回なぜ?を使うことで新たな視点から物事を見ることができ、成長を感じました。
ありがとうございました
あの名作『君の名は』の裏には古典の作品が!?
こんにちは
今回はゼミで今行ってなっている古典について触れていこうと思います。
いきなりですが、実は君の名は、
古典文学の
『男女とりかえばや物語』が題材となっているんです!!🔥
新海誠監督は、夢と知っていたら起きなかったのにという点を引用しているそうです。
驚きですよね、
今では作品を真似たりしたら大きく批判を浴びるのですが、昔はむしろ褒められるということをおっしゃっていてそれもまた発見でした。
私が今回印象に残った点を挙げていきます。
1.和歌の世界において、夢に人が出てくるのは相手が思ってくれているから
私のイメージ、いや、一般的な現代の世の中では夢に人が出てくるのはその人のことを自分が考えてしまっているからだと思います。
なので、昔は今とは違って逆に相手が思ってくれていると考えられていたことが不思議でした。
また、現代もそうであればいいと心の底で思ってしまいました。
なぜなら、告白というのは全神経を集中させて、何をする時よりも緊張するからです。
この大勝負に挑むか否かは夢に出たかどうかで決めればいいというのはこれほど楽なことはありません。
まあ、勝てるかわからない大勝負を勝つから楽しいという面もあるので、どちらがいいのかというのはやはり決まりません。
話が逸れました、すみません笑
それでは話を戻すと
2.相手の夢に出たいと思ったら、衣を裏返して着る
これも今にはない文化なので印象に残りました。
古典にはこのような言い伝えというのが多いように感じます。
でも、それは今にはないから言い伝えが多いように感じるだけであって、昔の人が今の私たちを見たら言い伝えが多いと感じるのかもしれませんね。
印象に残った点はこの辺にします。
では、今日学んだ君の名はととりかえばや物語、男女入れ替え物語の共通点、違いを見ていきます。
【共通点】
男女が入れ替わった際、仕草がそれぞれ変わる点
たしかに君の名はでもお互い入れ替わった際、自分の呼び方や、仕草が変わっていました。
それは、女はこういうもの、男はこういうものと、昔から決められて書かれているからです。
【違う点】
・君の名は以外は全て最後には元の性別に戻ってしまっている。
しかし、君の名ははそういう展開に行ってない
・入れ替わったものが恋愛をしている
・時間軸を使っている
これらの相違点があります。
そして、最後に問いが与えられたのでそれについて答えていきたいと思います。
『物語の引用、変奏をしながら表現したい内容とはなんでしょうか?』
なかなか、国語と英語が大の苦手だった私にとっては難しい質問ですね笑
私が思うには、この男女入れ替え物語において引用することによって、異性への憧れを抱いている人の多さを、表現していると思います。
それと同時に、君の名はを除いて、最後は元の性別に戻っているという観点から、性別という名の壁は越えられないはかなさを後世に伝えていきたいという主張を私は感じました。
古典をブログにするのは正直苦手だと私は思いました。
しかし、古典を学ぶことによって、驚き、発見が多くあります。
その驚き、発見、を楽しみに次回の講義も受けたいと思いました☺️
哲学対話その2
今日の問いはまた二つ!
まず一つ目から
1.われわれは自分が愛着を持っているコミュニティに対して他の人にも同じように愛着を持ってもらいたいと思うのはなぜか?そして、その気持ちは持っていていいものなのか、それとも制御すべきものなのか?
私たちのグループでは、まず、この他の人というのを同じコミュニティ内の自分以外と捉えました。
その場合、他の人に愛着を持ってもらいたいと思う理由は他のコミュニティに対しての対抗心というのがあるのではないかと感じました、
私も実際コミュニティはみんながコミュニティの事を思い、愛着を持っている方が他のコミュニティよりも上に立った感じがして好きです。
高校野球をしていた時も他のチームよりも団結力を作りたく、また仲の良さにもこだわっていました。
ここで感じるのは、コミュニティへの愛着というのはメンバー同士の仲の良さが比例しているのではないかということです。
私は、メンバー同士の仲の良さが、メンバーへの愛着になり、それがコミュニティへの愛着に繋がるのだと思っています。
また、グループで出た他の意見としては、
自己防衛のために他の人に愛着を持って欲しいのではないかという意見もありました。
それは、他の人にもコミュニティに愛着を持ってもらうことによって、自分だけがコミュニティに愛着を持っている
↓
いうならば、仲間はずれを逃れるためです。
たしかに、一人で愛着をもっていても生まれるものは少なく、むしろ他の人からあいつなんでこんなに愛着持ってるのと後ろ指を刺されるかもしれません。
1の問いで生まれた答えはこんな感じです。
次の問いに移ります。
2.怠け者のB君を、人間として尊敬しなさいという教師の言葉はなぜ問題なのか?
私たちは、人間として尊敬しなさいという言葉には多くの裏の言葉が隠されていると思いました。
そこに隠されていると思った言葉を紹介します、
B君は勉強できないし、怠けているんだよね
だけど、同じ人間という生き物としては粗末に扱ったらダメですよ。
つまり、このB君という生き物小さいとこで見たらまるで尊敬できたもんじゃないよね
という意味です。
なんとも残酷な先生です。
この先生はどこが良くて、そのどこというのをきちんと明確にして褒めるべきだと思います。
人間としては表現が曖昧すぎるので、否定的な意味で捉えられてもおかしくないでしょう。
以上です!
哲学対話をしましょう
今回は須永先生の哲学講座の1回目でした!
私がおもろいなと感じたのは、知識というのは実は脱げない鎧をかぶっているというところです。
知識は一度身についてしまったら、それを他の知識に書き換えるというのはなかなかできなくなるんです。
二つの写真を見せていただいたとか驚きました。
最初なにが描いてあるか全くわからなかったのですが、そこには、牛の絵とダルメシアンの絵が隠らていると教えてもらいました。
その瞬間もう何が描いてあるかわからなかった自分というのはそこにはいなくて、もうそれにしか見えず何が描いてあるか分からなかった自分に戻ることが出来なかったのです。
ここでただ闇雲に知識をつければ良いというものではないんだと感じました。
良い知識も一度しっかり定着させると離れにくいが、悪い知識も一度定着すると良い知識にアップデートしにくい。
つまり、何か知識をつける際にもこれは本当に正しい知識なのかを見極める力というのが大切だということです。
ではもう一度今回の問について考えてみます。
まず、
『なぜわれわれはあなたは差別していると言われたくないのか?』
についてです。
そう言われるのが嫌なのはやはり周りの目を気にしているからではないでしょうか。
人間はやはりなんだかんだ言っても自分というものを一番守りたい生物だと私は認識しています。
なので、一般的に差別=悪という固定概念があり、その固定概念を塗り替えるというのは、一度定着した知識を変えるのは難しいのと同様に難しいのだと思います。
つまり、人間は一般的に悪だと言われれば日本人の風潮として右に倣え精神なので、悪は民意に従って潰してもいいくらいの考えなのだと思います。
どれだけ強い人間も袋叩きになってしまう場合身に危険を感じます。
なので、自分を守る、自己防衛の感情としてもあなたは差別をしていると言われたくないのだとおもいます。
そして次の問です
『差別をしたくない場合、どうすればいいか?あるいはそもそも、差別はしてしまっても仕方ないものなのか(だとしたら、なぜ世の中ではかくも差別はいけないと言われてしまっているのか)』
私の意見としては、差別をしないのは無理です。
人間だれもが軽蔑の感情があります。
差別をしていないように見える人も、差別感情を内にしまっているだけです。
なので、私は差別をしてしまうのは仕方ないので、その差別感情を内に隠し、さらに隠していることすら相手に気づかせない技術を高めていく必要があると思います。
まず、前提として差別感情はあるものだと認識をして、その上で差別をしたくないと考えるのではなく、差別してしまうのをどう相手に隠して、それをさらに気づかせないかを考えるというのが私の中での答えです。
今回の講義もなかなか難易度が私自身の中では高かったですが、その分頭もフル回転させているので、成長も大きい。
哲学を考えるのは大変ですが、大変ということは文字の通り大きく変わる、つまり、大きく成長するということなので、必死に喰らいついていこうとおもいます🔥
哲学と真剣に向き合ってみたの巻
こんにちは!
今回は哲学対話についてです。
ゼミで配布された資料を読んでその感想をブログに書いていこうと思います。
しかし、非常に内容が難しい!
なので、A.B.C.Dと分かれているため、パートごとに読んで感想を書いていこうと思います。
【A】
悪意に基づく差別をどう捉えるか
差別には、悪意の場合と何かを守るための正義の場合がある。
人間は他人に危害を加える生き物で、その動機には正しいものと正しくないものがある
しかしその内的動機を探るのはナンセンスである。
私は差別には何かを守るためにあるというのは納得できます。
自分の大切なものに対して、何か危害を加える存在であるならば差別というのはいた仕方ないことだと思います。
私も、大切なもの、人が外的要因により傷つけられる時、全力でその要因に対し差別をするでしょう。
しかし、その内的動機を探るのはナンセンス?
それが私は理解ができませんでした。
差別にも悪しかない差別とそうではないものがあるのだから、私はそこをはっきりさせ、悪しかないものには罰を与え、そうではないものは理由をしっかり聞いた上での対処というのが必要だと思いました。
【B】
まず
人間=他人に不快に感じられると傷つく
しかし、人は不快に感じてしまうことはある
この不快というのを統制することはしてはならない
しかし、無制限に発露を許してもいけない
その解決策としては、
『不快に思っていないように振る舞う』
が、多くの人が不快だと明言されたくなく、不快を示す振る舞いもされたくなく、不快に感じられたくもない。
ほんとうに難しいです💦
たしかに、私も人に不快に感じられたくありません。
人によっては人がどう思おうが気にしない。
という人もいると思いますが、少なくとも他人に不快に思われて嬉しい!という人はいないと思います。
それなのにも関わらず人というのは他人に対して不快に感じます。
ほんとうにそう考えると人間というのは自分勝手な生き物です。
このテーマは差別感情
たしかに差別感情を全て禁止にするのは無理があり、障害者や被差別部落出身者への差別のような硬い差別意識による差別感情のみを差別感情と定義している。
日々不快を好きなように放出している人も公認された被差別者に対してだけは不快を出さない。
社会的に葬り去られるからである。
この文章には、日頃から不快を放出している人も差別感情と定義される人には不快を表に出さない。と書かれてあります。
これはむしろ差別だと私は思います。
なぜなら、人によって行動を変えているからです。
自分にとって不快なことはきちんと相手に伝えるべきだと思います。
たしかに、被差別部落出身の人だから不快というのは理由ではないですが、きちんと不快に思うことがあれば伝えるべきではないでしょうか?
公認された被差別者に対してのみみんな揃って不快を表に出さない。
それこそが私は差別だと感じました。
正直、私はこの文章を読んで、このような公認被差別者などを分類するからいじめなどがなくならないんだと思いました。
この文章を見てみたところ、いじめられる子はこの被差別者に該当しないの?
と正直感じました。
何の障害もなく、被差別部落出身でもなければそれは差別ではないのでしょうか?
公認の被差別者だから不快を表に出さない!
それ以外だから不快を放出!
そもそもそう分類すること自体間違っているのかな?
とも感じてしまったのが現実です。
【C】
日本では家族愛がとてもよく持ち上げられる
なので、家族を愛せない人、家族を憎んでいる人、恨んでいる人などに対し不幸だと決めつける。
彼らは家族愛こそが最大の幸福だと信じているからだ。
人は障害者に対しては、『不幸でしょう?』という言葉を呑み込む、しかし、家族に恵まれない人に対しては『お寂しいでしょう?』と言う。
私はこれを読んで人はやはり自分軸なのだと感じました。
果たして家族に愛を感じない人、家族に恵まれない人が絶対に不幸なのでしょうか?
それは、勝手に家族愛はあるものだと思っているからそう言うアホみたいな発言が出るのだと思います。
もちろん、家族愛を感じることはわたしもとても幸せに感じます。
だからといってその考えを他人に押し付けようと思いません。
なぜなら、私にとって家族愛が一番幸福だとしても、他人にとっては違うかもしれないからです。
人間はなにかと勝手な固定概念を決めつけてそれを他人に押し付けます。
ほんとうにその点に関しては人間は哀れで醜い生き物だと思います。
そして、私自身もその哀れで醜い生き物だと再認識しました。
しかし、郷土愛の文章については納得できません。
人は初対面でコミュニケーションを取るとき共通点を探したり、何か話題になるポイントを見つけます。
それなのに対し、郷土愛を感じないとはなからシャットアウトするべきではないと思います。
生まれた場所が同じなどでなれなれしくしてくるのが耐えられないと書かれてありますが、
同郷だからなれなれしてるのではなく、距離を縮めるためのただのきっかけに過ぎないと思います。
これを郷土愛を感じるかどうとかでシャットアウトするのではなく、郷土というものを一つの会話のきっかけだと捉えることが重要ではないかなと感じました。
【D】
子供の頃から勤勉であることを教え込まれ、勤勉な子を褒め、そうでないものを叱る、同時に勤勉ではないものを軽蔑してはならないと教える。
勤勉なAは賞賛され、同時にできないBを軽蔑するなと教える。
Aは理解に苦しむだろう。
たしかに、普通に考えたらBを軽蔑しないというのは難しいと思います。
ですが、あまり賢いAはできないBを軽蔑などしません。
私自身が子供の時も優秀な人たちはアホな人たちを軽蔑していませんでした。
それどころか、勉強を教えてあげたりできない人を手伝ってあげたりするのです。
この文章にも書いてありましたが、賢い子は自分のことを誇りません。
それは、誇らないことによって自分が得をするからです。
また、勉強を教えたり助けてあげたりするのも、アホな子のために見せかけ結局は自分がさらに賞賛を受けるためのコマに過ぎなかったんだと感じます。
私は、野球などで教えてあげるとき、やはりどこかに教えている自分に酔っていたり、それをみて賞賛されることを狙っていたのだと思います。
こうしてみてみると、やはり人間という生き物は、自己中心的で哀れで醜いと改めて感じますね笑
今回の文章はなかなか難しく解読するのに時間がかかってしまいました笑
ですが、日頃考えないような視点、見方をすることができとても面白かったです🔥
暇と退屈
こんにちは!
やっと緊急事態宣言が解除されました。しかし、まだ正直第二波が来そうでこわいです。
そんな中福岡大学はとりあえず5月中はオンライン講義です。
その中で、本日ゼミで暇と退屈についての議論があったのでそのことについてブログを書いていきます。
まず初めにこの中からいま自分はどこの位置にいるのかというのを自分自身で考えるということをしました。
考えた結果私は③の暇ではなく、退屈でもないというところだと感じました。
なぜなら、私は今課題などや、オンライン講義などもあるため暇ではなく、さらに動画を見たり、服を作ったりしてるので退屈でもないと思ったからです。
しかし、正直暇と退屈の定義をしっかり考えたわけではなく、ざっくりと曖昧に選んでしまいました…
そこで、同じ③になった人たちでグループになってオンラインで話し合った結果。
【暇】というのは
することがあるかどうか
これは、授業などで出る課題案外多いよねというとこからまとまりました。
【退屈】というのは
楽しいかどうか、することに対し不満があるか
ということでまとまりました。
この退屈というのはバイトなどをしていてもわかるように他のことをしたくなったりしたら退屈なんじゃないかという意見が出て、
なるほど、たしかにそれは退屈だな、と感じました。
その反面②を選んでいた人は暇という解釈を時間があるかないかで判断していて、やはり人によって言葉の解釈の違いというのがあることを確認しました。
そして私なりの暇について考えてみます。
私はとてもよく暇という言葉を言います。
この私が使う暇には何が込められているのか、そしてどのような時に暇という言葉を使っているのかを思い出してみると、
まず、強制的、必ずやらないといけないことがなく、何をしてもいい時間がある時に暇と私は言います。
しかし、強制的にしないといけないことがなくてもゲームなど自分が楽しく熱中していたり夢中になっていたりしたら暇とは言いません。
なかなか難しいですね笑
ここから私は暇という言葉が出るには
いくつもの壁を乗り越えて暇という言葉が出ている事に気づきました。
まず、強制的、何かしなければならないことがないということが前提条件となってきて、
何をしてもいいという状況下で、自分の趣味や、熱中していること、夢中になることがないという条件を満たした時に暇は出てきます。
暇とはなにかを考えた結果こんな感じにしか頭が回りませんでしたが、普段何気なく使っている言葉を深く考えてみるというのも、非日常な感じがして面白いですね(笑)
これからも、ふとした時に使っている言葉を少し考えてみたりすると面白いかもしれませんね!
今日はこの辺で!!