哲学と真剣に向き合ってみたの巻

こんにちは!

 

今回は哲学対話についてです。

 

ゼミで配布された資料を読んでその感想をブログに書いていこうと思います。

 

しかし、非常に内容が難しい!

 

なので、A.B.C.Dと分かれているため、パートごとに読んで感想を書いていこうと思います。

 

【A】

 

悪意に基づく差別をどう捉えるか

 

差別には、悪意の場合と何かを守るための正義の場合がある。

 

人間は他人に危害を加える生き物で、その動機には正しいものと正しくないものがある

 

しかしその内的動機を探るのはナンセンスである。

 

私は差別には何かを守るためにあるというのは納得できます。

 

自分の大切なものに対して、何か危害を加える存在であるならば差別というのはいた仕方ないことだと思います。

 

私も、大切なもの、人が外的要因により傷つけられる時、全力でその要因に対し差別をするでしょう。

 

しかし、その内的動機を探るのはナンセンス?

 

それが私は理解ができませんでした。

 

差別にも悪しかない差別とそうではないものがあるのだから、私はそこをはっきりさせ、悪しかないものには罰を与え、そうではないものは理由をしっかり聞いた上での対処というのが必要だと思いました。

 

【B】

 

まず

 

人間=他人に不快に感じられると傷つく

 

しかし、人は不快に感じてしまうことはある

 

この不快というのを統制することはしてはならない

 

しかし、無制限に発露を許してもいけない

 

その解決策としては、

 

『不快に思っていないように振る舞う』

 

が、多くの人が不快だと明言されたくなく、不快を示す振る舞いもされたくなく、不快に感じられたくもない。

 

 

ほんとうに難しいです💦

 

 

たしかに、私も人に不快に感じられたくありません。

 

人によっては人がどう思おうが気にしない。

 

という人もいると思いますが、少なくとも他人に不快に思われて嬉しい!という人はいないと思います。

 

それなのにも関わらず人というのは他人に対して不快に感じます。

 

ほんとうにそう考えると人間というのは自分勝手な生き物です。

 

このテーマは差別感情

 

たしかに差別感情を全て禁止にするのは無理があり、障害者や被差別部落出身者への差別のような硬い差別意識による差別感情のみを差別感情と定義している。

 

日々不快を好きなように放出している人も公認された被差別者に対してだけは不快を出さない。

 

社会的に葬り去られるからである。

 

 

この文章には、日頃から不快を放出している人も差別感情と定義される人には不快を表に出さない。と書かれてあります。

 

これはむしろ差別だと私は思います。

 

なぜなら、人によって行動を変えているからです。

 

自分にとって不快なことはきちんと相手に伝えるべきだと思います。

 

たしかに、被差別部落出身の人だから不快というのは理由ではないですが、きちんと不快に思うことがあれば伝えるべきではないでしょうか?

 

公認された被差別者に対してのみみんな揃って不快を表に出さない。

 

それこそが私は差別だと感じました。

 

正直、私はこの文章を読んで、このような公認被差別者などを分類するからいじめなどがなくならないんだと思いました。

 

この文章を見てみたところ、いじめられる子はこの被差別者に該当しないの?

 

と正直感じました。

 

何の障害もなく、被差別部落出身でもなければそれは差別ではないのでしょうか?

 

公認の被差別者だから不快を表に出さない!

それ以外だから不快を放出!

 

そもそもそう分類すること自体間違っているのかな?

 

とも感じてしまったのが現実です。

 

【C】

 

日本では家族愛がとてもよく持ち上げられる

 

なので、家族を愛せない人、家族を憎んでいる人、恨んでいる人などに対し不幸だと決めつける。

 

彼らは家族愛こそが最大の幸福だと信じているからだ。

 

人は障害者に対しては、『不幸でしょう?』という言葉を呑み込む、しかし、家族に恵まれない人に対しては『お寂しいでしょう?』と言う。

 

私はこれを読んで人はやはり自分軸なのだと感じました。

 

果たして家族に愛を感じない人、家族に恵まれない人が絶対に不幸なのでしょうか?

 

それは、勝手に家族愛はあるものだと思っているからそう言うアホみたいな発言が出るのだと思います。

 

もちろん、家族愛を感じることはわたしもとても幸せに感じます。

 

だからといってその考えを他人に押し付けようと思いません。

 

なぜなら、私にとって家族愛が一番幸福だとしても、他人にとっては違うかもしれないからです。

 

人間はなにかと勝手な固定概念を決めつけてそれを他人に押し付けます。

 

ほんとうにその点に関しては人間は哀れで醜い生き物だと思います。

 

そして、私自身もその哀れで醜い生き物だと再認識しました。

 

しかし、郷土愛の文章については納得できません。

 

人は初対面でコミュニケーションを取るとき共通点を探したり、何か話題になるポイントを見つけます。

 

それなのに対し、郷土愛を感じないとはなからシャットアウトするべきではないと思います。

 

生まれた場所が同じなどでなれなれしくしてくるのが耐えられないと書かれてありますが、

 

同郷だからなれなれしてるのではなく、距離を縮めるためのただのきっかけに過ぎないと思います。

 

これを郷土愛を感じるかどうとかでシャットアウトするのではなく、郷土というものを一つの会話のきっかけだと捉えることが重要ではないかなと感じました。

 

【D】

 

子供の頃から勤勉であることを教え込まれ、勤勉な子を褒め、そうでないものを叱る、同時に勤勉ではないものを軽蔑してはならないと教える。

 

勤勉なAは賞賛され、同時にできないBを軽蔑するなと教える。

 

Aは理解に苦しむだろう。

 

たしかに、普通に考えたらBを軽蔑しないというのは難しいと思います。

 

ですが、あまり賢いAはできないBを軽蔑などしません。

 

私自身が子供の時も優秀な人たちはアホな人たちを軽蔑していませんでした。

 

それどころか、勉強を教えてあげたりできない人を手伝ってあげたりするのです。

 

この文章にも書いてありましたが、賢い子は自分のことを誇りません。

 

それは、誇らないことによって自分が得をするからです。

 

また、勉強を教えたり助けてあげたりするのも、アホな子のために見せかけ結局は自分がさらに賞賛を受けるためのコマに過ぎなかったんだと感じます。

 

私は、野球などで教えてあげるとき、やはりどこかに教えている自分に酔っていたり、それをみて賞賛されることを狙っていたのだと思います。

 

こうしてみてみると、やはり人間という生き物は、自己中心的で哀れで醜いと改めて感じますね笑

 

 

今回の文章はなかなか難しく解読するのに時間がかかってしまいました笑

 

 

ですが、日頃考えないような視点、見方をすることができとても面白かったです🔥